先日、土佐山診療所で実習した3年生の鈴木脩斗君からレポートをいただきました。春休みを使って、自主的に実習してくれました。
とても大切なことを感じ取ってくれていると思います。医師になっても、その感性を持ち続けてもらいたいと思います。いい医師になってくれると大いに期待しています。(阿波谷)
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誰のための医療か~土佐山へき地診療所で感じたこと~
医学科3年 鈴木脩斗
人から離れたくない。これからどんな道へ向かおうとも、どんな医療者になろうとも。それが私の一番の根っこにある思いである。
本来、医療は何のためにあるのだろうか。病を治癒するため?寿命をのばすため?健康を維持するため?聞く人によってさまざまな意見が返ってくることだろう。でも一番根本にあるものは何か。それは人間である。何を当たりまえのことを、と思うかもしれない。しかしこの一番当たり前のことを人は往々にして忘れ去る。病んでいるのは間違いなくその人自身なのだ。臓器ではない、もっと全体的な一つの“ひと“として、そしてそのひとの中のずっと奥の方にある“何か“が健康でない状態。それが病ではないだろうか。そう考えると、医療者と呼ばれる人たちの使命は、病気を退治することではない。目の前のひとを癒すこと、である。
ひとから離れた医療とはどんな医療か。それは、医療者がただ提供し、患者がそれをただ受け取る、という関係性の中にあるものだと私は思う。よい音楽は自分の気持ちをメロディーに乗せることができるし、よい文学は自分の気持ちを文章に乗せることができる。よい医療も同じで、医療者が提供して患者がそれをただ受け入れるのではなく、医療者と患者が同じ目線に立って共通語を話し、“対話”して、お互いの気持ちを通合わせあうことが重要である。
土佐山へき地診療所での阿波谷先生と患者さんとの関係は、“医療者”と“患者”という関係以前に、間違いなく“ひと”と“ひと”という関係があった。阿波谷先生は何よりまず、相手の目を見て話す。そして物理的、精神的距離感を大切にしている。相手に寄り添うことが大事というけれど、寄り添い過ぎても患者さんは心を開いてくれないことがある。つかず離れず、ちょうどよい距離感を保つこと。その“ひと”を見ているからこそできることなんだろう。
“ひと”を知るには時間がかかる。だから、阿波谷先生は時間をかける。まず一回の診察時間に十分ゆとりをもって、患者さんと丁寧に対話をする。それは病気の話だけではない。そのひとの生活から価値観まで、ありとあらゆることを話す。でもそれは、初めからそううまくいくことではないと思う。そのような丁寧な日々の対話を何度も繰り返すことで、患者さんがこころを開き、阿波谷先生もこころを開き、互いの信頼関係が生まれるのだろう。病の原因は、生物学的な、その人の体の中だけにとどまらない。もっと広く、その人を取り巻く環境、経済的状況、人間関係、生活習慣、価値観、いろんなものが有機的に絡まりあって健康でない状態を作る。だから、狭い視点で患者さんをみるだけでは本当の健康にはつながらない。広く、そして長い目で患者さんを見ていくことが一番大事なことなんだと思う。
目的をはき違えてはいけない。阿波谷先生の言葉だ。日々多忙な医療の世界に身をおくと、知らず知らずのうちに目の前の患者さんが一人の人間であるということを忘れ、自分のスキルの向上や無機的な知識に目が行ってしまうかもしれない。しかし誰のための医療か。私は常に患者と、一人の人間と、真剣に誠実に向き合っていきたい。
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